大分市・元町石仏 |
県中央部の大分平野に流れる二つの河川、大分川と大野川の流域ば、阿蘇熔岩の発違した地域であり、多くの特徴ある磨崖仏の拝される地である。特に大野川に沿って走るJR豊肥本線はその沿線に著名な磨差仏を訪れるのに、大変都合のいい路線である。
(1)大分元町磨崖仏(国史跡)
大分市元町 岩薬師
JR大分駅→大分バス元町方面行きで10分、バス停:薬師堂前下車、右側を走る久大線の踏例を渡って南へすぐ。徒歩3分
元町は、JR大分駅の東南1・5キロ。国道10号線とと久大線が平行して走るあたリ上野丘台地の東端に位置する。この付近は、戦国時代の末大友氏の城下町であった所である。
久大線のすぐ西側の道に東面する瓦葺きの小堂内に、「岩票師」と呼ばれる磨崖仏が当面して在わす。見上げるような大きさと丸彫りに近く彫り出されているのに驚く。
資料などからその大きさを調べてみると
多聞天立像 復元推定高 260cm
薬師如来立像 台座とも515cm
矜羯羅童子立像 復元推定高 250cm
不動明王立像 現状高120cm
セイタカ童子立像 現状高145cm
像高約300cmの薬師像を中心に、右側に頭部および左側を欠損した多聞天像、左側に欠損著しい不動三尊が、凝灰岩の壁面に刻まれる。
薬師如来像は結跏趺坐する見上げるような巨像で、顔面の一部・胸部・手の部分を欠損する。頭部には整然とした肉髻・螺髪を有し、伏し目をした柳葉形の切れ長の眼、小太りの鼻と幼童のような口、ふっくらと張りのある頬、二重顎など端麗な相好を示す。下半身を殆ど失い、顔の左頬から胸元にかけて大きく剥落する。像は殆ど丸彫りに近く、無数の亀裂があり崩壊のおそれがあったが、昭和40年代後半に発泡性ウレタン樹脂による修理が行われた。剥落した左頬下部、膝から下、台座部分において厚さ3〜4mm、長さ20mm位の断面角形の鉄釘が打ち込まれていることが、岩男順氏の調査報告に記載される。これについては、像顕当初剥落したり、岩石の量的不足の部分に粘土で仕上げるための指示帯の役割を鉄釘が果たしたものという見解が述べられている。
粘土併用の手法はこのほかにも、豊後大野市・菅尾石仏や大迫石仏等にもその例のあることが、小野玄妙『大乗仏教芸術史の研究』によっても知られ、この中で<石心塑造法>という用語が使われている。
舟形光背には円光を刻み、朱で火焔を描き、仏体には胡粉彩色の跡を残す部分が見られる。不動三尊や多聞天は欠損著しく無惨な様子を見せる。
先学による磨崖仏造立の年代を見ると、大村西崖説〜奈良時代初期、小野玄妙説〜奈良時代末期弘仁以前、浜田耕作説〜平安時代初半と、それぞれ異なった見解が出される。現在ではほぼ平安時代初期の造立と考えられている。造立者は「日羅」伝説がある。
1934年(昭和9)に国指定史跡となった。