群馬県の図像板碑(16) |
考古館のパンフレットによれば、江戸時代に伊勢崎町の名主を務めた相川氏の居宅・母家・茶室・土蔵をそのまま展示場として相川之賀氏が創立したもので、1950年(昭和25年)10月15日「相川考古館」として発足し今日に至る。
板碑は考古資料展示室一階の左端の鎌倉時代の展示の中にあり、図像板碑は2基あるが右側のものについて説明する。
現在、上部を欠失しており現高59センチ、上幅29、下幅27.5、厚さ3センチの緑泥片岩製のもので、背面はほぼ平らに加工される。幅24.5センチの枠線を線刻し、前机・三具足の上に蓮座の一部と放射光が二条ずつ残されているところから、図像板碑であったと考えられる。枠線の内側両側に「光明遍照十方世界/念仏衆生摂取不捨」の偶を刻み、中央に「奉夜念仏供養結衆」その両側に「明鷹七年戊午(1498)十月十五日」の紀年銘、それらの余白に「左近太郎左衛門二郎次郎三郎/左衛門五郎/五郎三郎/八郎太郎/左衛門太郎与五郎太郎五郎」の交名が彫られる。
この板碑はかつて、東京都足立区伊興に所在したものである。なお、伊興町五丁目・八幡杜に祀られる明応六年銘の夜念仏図像板碑(現在足立区立郷土博物館にて常設展示)との関連が、最近注目されるようになった。なお、この板碑は展示中の資料のため採拓の許可が得られなかったので、観察・記録によったものである。拓影は次の参考文献から引用した。【参考資料】『伊勢崎の板碑』(伊勢崎市史編さん資料)〔昭和58年3月〕