【番外2】 日の出町の図像板碑 |
★東京都西多摩郡日の出町平井2150・平井阿弥陀堂 弥陀三尊図像板碑(建治三年在銘)
JR五日市線「武蔵増戸」駅の直ぐ西の広い道を北へ約1.5km、タイヤ館あきる野から細い道を左に入ると、西光寺がたち、その南200mほどの空き地一隅に平井阿弥陀堂が立つ。周辺は新しい住宅が建ち並んでいて、阿弥陀堂も畑の畦を通って行く。堂の写真は民家の庭に入ってフェンス越しに写したものである。
1m四方ほどの小祠の中央に板碑は祀られている。堂内にはその他に十数基の種子板碑が安置される。元々露仏であったのを昭和48年に野口弥之助氏が小堂を作って納めたと『日の出町史』にある。
図像板碑は総103cm、上幅32.7、下幅33.3、厚さ3cmの大きさであるが、表面には一部剥離が見られる。頭部山形は高さ8cmで、その下の二条の刻みは見られず、側面に羽刻みが二つずつ刻まれる。これは古い形式の板碑によく見られる。
石の頂部から18.5cmチ隔てて二九方向に放たれた放光が、直径17cmの大きさで丸く伸び、右下の二条の光明は長く石の端近くまで伸び、念仏行者を引摂する様を表す。
直径8cmの頭光をおう阿弥陀如来は像高20cmの大きさに刻まれ体全体を右下方に向けている。右手を胸元に挙げ、左手は膝の辺りに垂れる来迎相をとる。頭部・面部・手足は石の面のまま陽刻し、衲衣は襞を残して中を彫りさらえる鋤出彫りと表現に変化を付けている。足元は踏み割り蓮座であるが、右足の一部は剥離にかかり蓮座が見られなくなっている。 蓮座から約5cmほど離れて頭光をおった観音菩薩の立像が見られるが、背中の部分は剥離のために見えず、蓮座を捧持する様子や踏み割り蓮座に立つ様子が認められる。左の勢至菩薩像は剥離のために全く姿をとどめていない。
その観音像の下、石の中央に「建治三(一二七七)年丁丑九月(以下不明)」と年紀を、その左右に一行ずつ「右志者□□□・・」「聖霊往生極楽□□・・・」の銘文が刻まれるが、風化のために判読は難しくなっている。建治三年銘は日の出町で最も古い板碑にあたる。この銘文部分の位置などから石が折損するものと考えられる。
頭部山形の下に二条の刻みを持たず、早来迎像を刻む図像板碑は埼玉県北西部の児玉郡、更に県境を越えて群馬県多野郡に類型が見られる。当時の人々の交流や信仰の教線など深いつながりがこの地と有ったのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』巻之百九、多摩郡之二十一に「阿彌陀古碑」西光寺の南の畑にあり、石面に彌陀の像を彫りて年月等はしるさず、土人の傳に、この碑はいかなるゆへにや、昔より此碑にふるゝものは必瘧病を患ふといひて、人甚おそれて近づかずとぞ、其由来は詳ならず、」(29ページ)とあるのが該碑と考えられる。