板碑探訪記<東国の図像板碑>
2018-12-22T06:19:23+09:00
akisinogawa
東国の図像板碑を尋ね歩く
Excite Blog
東京都(二十三区)の図像板碑(41)
http://akisinogaw.exblog.jp/27751115/
2018-12-21T09:59:00+09:00
2018-12-22T06:19:23+09:00
2018-12-21T09:59:30+09:00
akisinogawa
未分類
先の板碑(40)と同様に山王草堂にあった一基で、『昭和53年 東京都板碑所在目録(二十三区分)』(東京都教育委員会)の370に記録される板碑が本塔である。
現高47.2センチ、上幅28、下幅29、厚さ3.5~3センチの下部を欠失する緑泥片岩製の図像板碑。高さ6センチの山形の下に二条の刻みを持ち、直径23センチの大きな頭光をおう阿弥陀立像を彫る。像は顔の輪郭や三道、衣紋は陰刻する線で表され、胸元に挙げた左手の肘の当たりから下の部分はやや不鮮明であるが、衣紋の刻線が縦に刻まれる点から立像と考えられる。下部が欠失するので一尊か三尊かは断定しがたいが、石の大きさから見て一尊であったと考える。 頭の周囲には二重の小さな頭光を彫り、中に蓮華文を陰刻する。その外の大きな頭光には傘の骨状の放射光が六〇本の多さで彫り出される。頭光の中に蓮華文を彫り傘の骨状の多くの放射光を彫る板碑としては、埼玉県児玉郡児玉町保木野・鈴木家の弥陀一尊図像板碑(乾元二年)や、東京都東久留米市下里・石塚家墓地の弥陀一尊図像板碑(下欠)等が知られるが、本塔も同様に南北朝時代の造立かと思われる。
以上二基は、平成14年6月16日に同大学常磐松館で開かれた「東国文化研究会」の例会の折りに、特に調査を許可されたものである。
この時はその他に阿弥陀種子板碑(131.2センチ 永仁四年十月日)、弥陀種子板碑(111センチ 弘長三年七月日)、名号板碑(113センチ 貞治七年四月十九日)などを記録している。
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東京都(二十三区)の図像板碑(40)
http://akisinogaw.exblog.jp/27696650/
2018-12-04T08:40:00+09:00
2018-12-21T09:48:44+09:00
2018-12-04T08:40:14+09:00
akisinogawa
未分類
元は大田区山王1-41-25山王草堂(徳富蘇峰旧邸)にあったもので、平成13年に國學院大學に古瓦、板碑等を中心とした一万点近い膨大な考古資料が一括寄贈された。このうち板碑は70基をかぞえる。これらについては2001年に『國學院大學 考古学資料館要覧』=徳富蘇峰旧蔵資料=として公刊された。
弥陀三尊図像板碑は現高67.5センチ、上幅30.5、下幅35.5、厚さ3.5(左)~3(右)の緑泥片岩製で、下部を欠失する。上部を三角山形とし11センチ下から二条の刻みを持つ。身部には枠線を作らず二条の刻み下から11センチ離れて像高26.5センチの正面向きの阿弥陀如来を陰刻する。阿弥陀像は飛雲の上に立ち、右手を垂下し左手を胸元に挙げた来迎の相を執り、二重の光背をおう。直径133センチと9.5センチの二重の頭光からは三条づつ線刻された放射光が十六方向に伸びるが、石の両端2センチほどの所で先端が止まっている。中尊の足下には共に中を向いて頭光をおう脇侍二菩薩が彫り出される。三尊とも顔は石の表面に作られ輪郭を線刻し、衣紋は薬研彫り状に彫り浚えて表されている。 二条の刻みの下、左側に三日月状の月天が陰刻される。右側にはこれと対に日天が彫られていたと思われる。
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東京都(二十三)の図像板碑(39)
http://akisinogaw.exblog.jp/27660694/
2018-11-10T17:16:00+09:00
2018-11-10T17:22:13+09:00
2018-11-10T17:16:00+09:00
akisinogawa
未分類
弥陀一尊図像板碑
当初、区議の松崎慊堂の蒐集した資料を基にして昭和50年に白根記念郷土文化館として開館した。庭内に板碑・庚申塔・聖観音・五輪塔・傘屋の碑等の石造品が展示してあった。その後改築されて渋谷区に関する歴史・民俗・考古学などをテーマにした博物館展示と、渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料を展示した 文学館展示を常設して現在に到る。
板碑はかつては庭内の塀によせかけて直接地面にたてられていたが、現在は収蔵庫に保管される。現高113センチ、上幅40、下幅42.5、厚さ3~4センチの緑泥片岩製の図像板碑で、前机から下の部分を欠失する。
頭部山形、二条の刻みの下3センチ隔てて、上幅35.5センチの輪郭を巻き(欠失部で幅37.5センチ)、その中に瓔珞を垂下した天蓋を線刻し、その上に月日を浅く彫り沈める。天蓋の下に像高41.5センチの正面向きの来迎印をとる阿弥陀如来像が、二重の頭光をおい蓮座の上に足を開いて立っている。像の周囲から四方に三条ずつの放射光が枠線まで長く伸びて放たれる。天蓋や瓔珞からは飛び出さないで造られる。面部や衣紋の袖は陰刻で表されるが襞は凹凸を交互にして立体感を出す。蓮弁は極く浅く平底彫りで表される。
蓮座の下に前机が置かれ、その上に華瓶・香炉・燭台の三具足が置かれるのは室町時代の図像板碑に多く見られる形式である。蓮座と三具足の間に「月待/供養」の刻字がある。前机の脚の下の部分から石が欠損していて、他の銘文については不明であるが、下端中央に「文」の刻字と、左右に交名と見られる一字づつの刻字が認められる。月待ち板碑は諸岡氏の調査研究などから約200基の所在が知られ、文明期と享禄基に二つのピークが見られると言われるが、本塔はこの文明の造立と考えられる。
板碑の元の所在地や文化館への移入経緯等は全く不明との話である。
平成18年度に区指定有形文化財に指定され、平成19年4~5月に「新収蔵資料展」で公開された。 ]]>
東京都(二十三)の図像板碑(38)
http://akisinogaw.exblog.jp/27660693/
2018-11-10T17:15:59+09:00
2018-11-10T17:15:59+09:00
2018-11-10T17:15:59+09:00
akisinogawa
未分類
白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 弥陀一尊図像板碑
当初、区議の松崎慊堂の蒐集した資料を基にして昭和50年に白根記念郷土文化館として開館した。庭内に板碑・庚申塔・聖観音・五輪塔・傘屋の碑等の石造品が展示してあった。その後改築されて渋谷区に関する歴史・民俗・考古学などをテーマにした博物館展示と、渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料を展示した 文学館展示を常設して現在に到る。
板碑はかつては庭内の塀によせかけて直接地面にたてられていたが、現在は収蔵庫に保管される。現高113センチ、上幅40、下幅42.5、厚さ3~4センチの緑泥片岩製の図像板碑で、前机から下の部分を欠失する。
頭部山形、二条の刻みの下3センチ隔てて、上幅35.5センチの輪郭を巻き(欠失部で幅37.5センチ)、その中に瓔珞を垂下した天蓋を線刻し、その上に月日を浅く彫り沈める。天蓋の下に像高41.5センチの正面向きの来迎印をとる阿弥陀如来像が、二重の頭光をおい蓮座の上に足を開いて立っている。像の周囲から四方に三条ずつの放射光が枠線まで長く伸びて放たれる。天蓋や瓔珞からは飛び出さないで造られる。面部や衣紋の袖は陰刻で表されるが襞は凹凸を交互にして立体感を出す。蓮弁は極く浅く平底彫りで表される。
蓮座の下に前机が置かれ、その上に華瓶・香炉・燭台の三具足が置かれるのは室町時代の図像板碑に多く見られる形式である。蓮座と三具足の間に「月待/供養」の刻字がある。前机の脚の下の部分から石が欠損していて、他の銘文については不明であるが、下端中央に「文」の刻字と、左右に交名と見られる一字づつの刻字が認められる。月待ち板碑は諸岡氏の調査研究などから約200基の所在が知られ、文明期と享禄基に二つのピークが見られると言われるが、本塔はこの文明の造立と考えられる。
板碑の元の所在地や文化館への移入経緯等は全く不明との話である。
平成18年度に区指定有形文化財に指定され、平成19年4~5月に「新収蔵資料展」で公開された。 ]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(37)
http://akisinogaw.exblog.jp/27545189/
2018-09-12T09:34:00+09:00
2018-09-12T09:34:04+09:00
2018-09-12T09:34:04+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
西武鉄道池袋線の「椎名町」駅の北東に南面して建っている新義真言宗豊山派の寺院。
山門を入って本堂への参道右手に、下部を固定して二基の板碑が立っており、左塔が図像板碑である。現高82.6センチ、下幅31.3、厚さ2.3~2.5センチの緑泥片岩製の板碑である。二条の刻みは少し右下がりに作られ、頭部山形の部分から身部上方にかけて一部欠損している。
身部正面に64.4×27センチの枠線を線刻し、正面を向いて陰刻された蓮座の上に像高28.5の来迎印の阿弥陀像が、周囲を彫り下げて、目鼻部分を残す手法で表現する。頭部には三重の頭光をおい、そこから二条の光明が体を包むように18方向に放たれる。
蓮座の下には側面を平たく浅く彫り浚えた前机を置き、前面に三角に垂れ下がった打ち敷きを掛け、その上に左から華瓶・香炉・燭台の三具足を陰刻する。これらは上坂悟氏によると(「板碑にみられる仏具」『板碑の総合研究』❶ 柏書房)、関東地方の武蔵型板碑板碑にのみみられ、東京都区内では1440年から1500年代まで認められるという事である(同書230ページ)。
身部の下部には、三郎二郎/助三郎/八郎太郎/三郎太郎/□□郎/左近二郎等六名の交名と、中央に「夜念佛」、左端に「念仏衆生」と刻まれる。石の右端に欠損部分があり、紀年銘は認められない。また、下の部分は埋め込まれて一部の字は欠けた状態になっている。
右塔は、現高82.8センチ、上幅28、下幅29、厚さ2.5センチの大きさを測る弥陀三尊種子板碑である。種子の下部中央に「逆修権律師頼尊」、その両側に「永享十二年(1440)/六月廿四日」の年紀を彫る。また、刻字の間に三茎蓮を生けた華瓶が一対彫られる。
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東京都(二十三区)の図像板碑(36)
http://akisinogaw.exblog.jp/27349324/
2018-06-19T18:02:00+09:00
2018-08-02T17:52:43+09:00
2018-06-19T18:02:28+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
「とげぬき地蔵」の由来はウィキペディアの記載によると「江戸時代、武士の田付又四郎の妻が病に苦しみ、死に瀕していた。又四郎が、夢枕に立った地蔵菩薩のお告げにしたがい、地蔵の姿を印じた紙一万枚を川に流すと、その効験あってか妻の病が回復したという。これが寺で配布している「御影」の始まりであるとされる。その後、毛利家の女中が針を誤飲した際、地蔵菩薩の御影を飲み込んだ所、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承もあり、「とげぬき地蔵」の通称はこれに由来する。 そこから他の病気の治癒改善にも利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えない。
板碑は境内隅の会館内に安置され、ガラス越しに境内からも見ることが出来る。許可を受けて会館内に入り実査することが出来た。 板碑は頭部を山形に整形した安山岩角柱の正面を彫りこんで、板碑を嵌め込んでいる。現高85センチ、上幅26、下幅27.5センチの緑泥片岩製の図像板碑で、右下部と根部を欠損する。頭部はやや丸みを帯びた山形をし、高さ8.5センチでその下に2センチずつの二条の刻みをもつ。二条刻みの下2センチのところから縦67横23センチの枠線を彫り、その内側一杯に線刻の天蓋を作り瓔珞が垂下する。 その下に正面を向いて蓮座の上に立つ来迎印の阿弥陀如来像を彫る。二重の頭光は直径7.5と6.5センチで、そこから一一方向に二条ずつの光明を放つ(一番下の方光のみ一条)。阿弥陀如来の像高は18センチを測る。 蓮座の下には頭光が中尊の蓮座に食い込んだ形で、中尊の方を向きあった観音・勢至の両脇侍菩薩はともに13.5センチの像高で、中尊と同じように線刻像で彫り表される。
三尊像の下に、前机を置き敷き布を掛け、三具足を配置する。像の下に交名と紀年銘が彫られる。「 助左衛門 右 四郎三郎 大永八年戊/子 (1528年) 奉 庚 申 待 供 養 閏九月三日 道林 弥次郎 新三郎 左衛門太郎 」図像庚申待板碑としては三郷市・東光寺閻魔堂塔(長享三年・弥陀一尊)に次いで古い。 板碑を嵌め込んだ角柱の左側面には角丸の長方形の彫り込みがあり、その内側を水磨きして、二行の銘文を彫る。彫り込みの大きさは横幅二〇センチに縦九六センチ。
「寛政十二年歳次庚申秋七月 吉田主計源久孝 施主 □□山□□禅寺十三世□□代 同彦五郎源天久」
右側面の銘文 「當寺先住密厳和尚穿池獲彫畫庚申像之石二枚 其傍有誌詳矣今去其世三四百年尚存于當寺當 寺之爲古跡亦可知也於是當住大俊和尚余紀其 事辞不獲命聊記所見云寛政十二年秋七月吉永元孝撰」背面「蜂屋新五郎源昌弘/久保栄左衛門藤原有年/上原治左衛門藤原行隆/吉田弥八郎源久武/神山塀蔵藤原周達/水谷善四郎源道慶/小野田源三郎藤原久林」 この板碑は、有名な『集古十種』碑録八に「江戸坂本髙巖寺碑」高二尺四寸、幅九寸余として収録されることは、よく知られるところである。『板碑遍歴六十年』の著者はその解説の中で「東京市外西ヶ原昌林寺境内にあり、寛政年間池中より掘出したるものという」と記す(同書 241ページ)。
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東京都(二十三区)の図像板碑(35)
http://akisinogaw.exblog.jp/27253373/
2018-05-03T16:52:00+09:00
2018-05-03T16:52:09+09:00
2018-05-03T16:52:09+09:00
akisinogawa
未分類
像の下、枠線に接して二行ずつに分けて光明真言偈を刻み、石面の中央に道光禅門、妙道禅尼の交名を、その外側に「文明五年(1473)癸/巳/八月十五日」の年紀を刻む。 本欄に登載した拓影は歴史考古学研究所時代に、先輩のK氏に青焼きコピーを頂戴したものである。封筒には「旧南蔵院板碑 拓本/田坂謙一氏旧蔵/文明五年/五一年八月収」と記されている。]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(34)
http://akisinogaw.exblog.jp/27121988/
2018-03-06T20:37:00+09:00
2018-03-07T13:40:03+09:00
2018-03-06T20:37:12+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
鈴木道也『板碑の美』(昭和52年9月8日 西北出版)の記録と写真によると、総高107センチ、幅32、厚さ2.5センチの図像板碑で、本堂に保存されるという。身部に枠線を陰刻し、その内部上方に日月を彫り平底彫りの蓮座の上に立つ来迎印の阿弥陀如来が、二重の頭光をおい、そこから二条ずつの放射光を一三方向に放つ。目鼻立ちを線刻しその顔に比べて大きな螺髪を陰刻する。蓮座の下方に線刻の前机と三具足を表し、その下部に銘文を刻む。「光明遍照 十方世界 道秀 宮大女 功□弥 文明十七年乙巳 (1485) 奉 月 待 供 養 結 衆 霜月廿五日 道乗 弥五郎 五郎二郎 念佛衆生 摂取不捨」収載の拓影は縣敏夫氏手拓によるものである。]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(33)
http://akisinogaw.exblog.jp/26878163/
2018-02-02T17:36:00+09:00
2018-02-02T17:41:20+09:00
2018-02-02T17:36:52+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
現高55.5センチ、上幅・下幅ともに38、厚さ2.5~3.7センチの緑泥片岩製で、阿弥陀如来の裳裾の当たりから下部を欠失する図像板碑である。頭部山形の下に二条の刻みを入れ、その下の身部に32センチ幅の枠線を刻む。日月を彫り表した下に、二重の頭光をおい十六方向に二条ずつの光明(真上に伸びる光明のみは三条で表される)を放ち、正面を向いて来迎相をとる阿弥陀如来が飛雲に乗る。蓮座などは欠失するが雲尾部分が放光の中に刻まれているのが見られる。 中野の文化財№19『中野区板碑資料集」によると、杉並区堀ノ内に所在したものであったという(原田弘氏寄贈)。同書9ページの解説には「この板碑はもと杉並区大宮八幡神社付近の善福寺川のほとりにあったものと推測される」と述べる。後述するが、杉並区の該当ページにも今亡として収録するが同一のものかは一部分の写真が残されるだけで不明であるが、詳しい解説からは同一のものと考えられる記述内容である。]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(32)
http://akisinogaw.exblog.jp/26598289/
2018-01-13T14:04:00+09:00
2018-01-13T14:04:26+09:00
2018-01-13T14:04:26+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
現高87.3センチ、上幅34.5、下幅35.5、厚さ3.6(右)4センチ(左)の緑泥片岩製で、江古田四丁目の川の中から引き上げられ堀野家が所有する図像板碑という。 弥陀三尊像の阿弥陀如来の下半身を残しての上部と、右側銘文の半ば以下を斜めに欠失する図像板碑で、中尊は飛雲に乗る蓮座の上に立ち二条の光明が三方向に枠線の端まで伸びている。膝のあたりから上を欠失する。中尊の下にはお互いに中央を向き合って頭光をおった脇侍菩薩が14.5~15センチとほぼ同じ大きさに線刻され、蓮座の後方には雲尾が上に靡いているのが見られる。右側の観音像は蓮台を両手で捧げ持ち、勢至菩薩は両手を合わせて合掌する。
脇侍像の下、石面の中央に三具足・前机が、その下には銘文が彫られる。四段に細い線で区切られ、三十数名の交名が刻まれるが一部は風化の為に判読できない。年紀部分だけを記す。
文明九年丁/酉 (1477) 六 斎 念 佛 供 養 逆 修 二月時正日 六歳念仏供養の板碑は比較的少なくて、諸岡勝氏の「資料目録」中で念仏供養板碑を19基挙げるが、六歳念仏供養は本塔を入れて2基だけである(もう一基は本尊不詳の板橋区高島平・松月庵出土の断片)。
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東京都(二十三区)の図像板碑(31)
http://akisinogaw.exblog.jp/26339433/
2017-12-27T09:54:00+09:00
2017-12-27T09:54:41+09:00
2017-12-27T09:54:41+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
奈良時代の宝亀元年(770)にこの地に創建されたと伝える都内でも数少ない古刹という。金沢邦夫「東京都画像一覧」に<戦災のため土中す(住職里見達人師談)>と記す。
服部清道『板碑概説』の第52図に「善光寺三尊像板碑(康元)」東京・浅草・橋場・法源寺として、表裏両面の写真が掲げられ、414ページ以下に次のように述べる。<東京市淺草區橋場法源寺所藏板碑(第52図版)
善光寺三尊図像板碑の中、唯一の有銘のものであるが、中央よリ折れ、且つ磨滅甚だしく、まことに惜しいものである。碑面上方に善光寺如來像を陽刻してゐるが、陽刻と云ふも平面の碑面に龕状に光背を剥り込みその中に三尊を彫出してゐるのである。三尊の形相光背及び華座の様式は世上流布の金銅善光寺三奪像と全く相同じく、碑面下半部に「見佛色身衆相具足、見諾菩薩色相具足、光明法林演説妙法、聞已即悟無生法忍、康元二暦丁巳□」と刻銘あり。「見佛色身衆生具足」の四句は浄土三部経の一たる「観無量壽経」上品上生の條に出づるものにして、康元二年は北條時宗執權の第二年に當り、既知善光寺如來像最古の銘あるものとして釦られてゐる武藏比企向徳寺の貿治三年像より後るること僅かに八年なり。この事實を以てしても、善光寺如來の信仰が如何に早く實際信仰の上に影響してゐたかを知るであらう。
板碑に所謂彌陀來迎像を現はしたものは數多いが、法源寺の善光寺如來板碑の上に出づるものは、現在に於いては未だ見出されない。若しこれが平安朝末期以後の善光寺阿彌陀如來といふ信仰に基づいて模造せられたるものとすれば、板碑に於ける阿彌三尊信仰最古のものである>。その大きさは同書100ページに「全かりせば尤も一丈を超えたであらう」と述べている。]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(30)
http://akisinogaw.exblog.jp/26233697/
2017-12-03T12:16:00+09:00
2017-12-03T12:16:50+09:00
2017-12-03T12:16:50+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
現高19.4センチ、幅12.9、厚さ2.8センチのほぼ長方形の残欠。右端に枠線の一部が残り、それに接するように二重の頭光をおう線刻の観音菩薩像の上部が残る。弥陀三尊図像板碑の一部と見られる。 先の板碑と同様に昭和2年10月に寄贈されたものである。
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東京都(二十三区)の図像板碑(29)
http://akisinogaw.exblog.jp/26161607/
2017-11-08T13:27:00+09:00
2017-11-08T13:27:46+09:00
2017-11-08T13:27:46+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
④弥陀三尊図像板碑(三石残欠) 現高60.2センチ、上幅32.3、厚さ2.8~2.9センチの大きさで、身部上部の枠線部から脇侍菩薩の下部までの破片で、中尊頭光部二石と像容部分の三石が残る。長方形の枠線の中に彫られた飛雲に乗る阿弥陀三尊図像板碑である。 中尊の光明は傘の骨状に丸く平底状に作られ、脇侍像は二重の頭光をおう。中尊は衣紋の襞を残し中を平底に彫りさらえる。脇侍像は線刻で彫られ、観音像は上半身が、勢至像は肩から上の部分が残る。全体に丁寧な造りであることが伺われ、前書は14世紀のものとする。 昭和2年10月に個人から東博へ寄贈されたものという。]]>
東京都(二十三区)の図像板碑(28)
http://akisinogaw.exblog.jp/26126298/
2017-10-22T12:57:00+09:00
2017-10-22T12:56:58+09:00
2017-10-22T12:56:58+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
『縣敏夫板碑拓本集成図録』PDF版を紹介したところ、早速お申し込み頂き、杓水社では大忙しだったそうです。お礼申し上げます。ご感想などお聞かせ頂けたら幸いです。
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東京都(二十三区)の図像板碑(27)
http://akisinogaw.exblog.jp/26093480/
2017-10-06T16:53:00+09:00
2017-10-06T16:53:06+09:00
2017-10-06T16:53:06+09:00
akisinogawa
図像板碑 石造美術
中尊蓮座の下、石面中央に華瓶・香炉・燭台の三具足を載せた前机を配し、その下に一行の銘文を刻む。「応仁元(1467)年十月廿三日」
昭和8年6月に個人から東博へ寄贈されたもので、出土地は不明。
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