群馬県の図像板碑(6) |
JR両毛線の「駒形」駅の西を走る県道藤岡大胡線を約3キロ余り南へ、韮川を越えて東善町の交差点を西に300m程の、道路南側すぐの所に月田家の屋敷墓がある。
板碑は墓塔の左側、江戸期の石塔群の右手に東面して、江戸時代中期の延享元年(1744)に造立された石室の中に収められる。板碑は総高63センチ、上幅29、下幅33、厚さ16センチの安山岩製のもので、やや丸みを帯びた頭部山形・二条の刻みを持つ。石の背面はほぼ平らに成形され黒っぽい粒の混じった石質でる。
二条の刻みの下、9.5センチ離れて28センチの高さで幅が最大18センチの、舟型光背を約2センチの深さに彫り窪めて、この中に21センチの像高を測る弥陀坐像を陽刻する。像は蓮座の上に結跏趺坐し、右手を胸元に挙げ左手を膝の上に置く。像厚は顔の部分で2センチである。肩幅9センチ、膝張り14センチを測る。石の表面は平らで刻字の跡は認められない。
この北北東約3キロの所に、先に取り上げた県下で一番古い弥陀三尊図像板碑である小島田板碑があり、舟型光背の中に陽刻の弥陀坐像を彫るところなど、像の姿には一脈通じるところがあるように見受けられる。
石室の正面には「具一切功徳慈眼視衆生/福聚海無量是故應頂礼」と「法華経観世音菩薩普門品」による偈頌を彫る。側面には「延享元甲子年四月吉祥日(右)/東善養寺村施主田村氏(左)」の造立銘がある。東善養寺は地誌によれば、韮川右岸。善養寺の東に位置することによるとされ、江戸期から明治22年の村名である。