栃木県の図像板碑(4) |
東武伊勢崎線の館林で佐野線に乗換え、「堀米」駅で下車。南へ徒歩で約15分の所に東面する浄土宗寺院で、山号を東福山と称する。
早来迎形の弥陀三尊像を彫り表し、その下部に宝篋印塔を彫った珍しい図像板碑として有名なものである。現在、本堂の左脇の間に木箱に入れて保存されている。
現高148.6センチ、上幅43.3、下幅45.2、厚さは上部で5センチを測る。緑泥片岩製。頭部山形は幅43センチ、高さは14.5センチ(比高0.337)で、その下に2センチ幅の二本の羽刻みをもつ。塔身面上半(二条の刻みの下)に81.6×40.3、76×34センチの二重の枠線を線刻し、その間に上と左右に「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」の四句の偈を陰刻割書し、その各文字の間に向きの異なった散蓮を薄肉で表す。
枠内に彫られる像高35.5センチの阿弥陀如来は右下方を向いて飛雲にのり来迎印をとり二重の頭光をおう。そこから三条ずつの光明を一六方向に放っている。飛雲右下方には像高23センチで少し腰をかがめて蓮台を捧げ持つ観音菩薩を、左側には26.4センチの大きさで胸元で合掌する勢至菩薩が、それぞれ二重の頭光をおい飛雲の上に立って下降する早来迎形の図像が薄肉彫りされる。勢至菩薩の飛雲は枠線に食い込んで彫られる。
枠線から3.2センチ隔てて、上半と同様に輪郭が巻かれ(幅37.5センチ)、その中に宝慶印塔が三尊像と同じように薄肉彫りされている。笠の下部以下を折損欠失している。笠下から宝珠までの高さは36.5センチあり、隅飾りは下部が21.5センチに対して上部で23.7センチと少し外傾している。川勝政太郎博士はその著『日本石造美術辞典』の中で「武蔵所在の来迎三尊像板碑のすぐれたものも少なくないが、また宝篋印塔を彫り出したものもあるが、この下野の板碑は繊細な美しさに優れている」と述べ、その制作年代を鎌倉時代後期としている(18頁)。角川版『日本地名大辞典』栃木県は「堀米〈佐野市〉」の項で、〈一向寺に阿弥陀三尊来迎図板碑があり、紀年銘は欠けているが、鎌倉期の手法が見られることから、小野寺・堀籠氏に関係する板碑であろう。〉と、述べる(816ページ)。
一向寺のある堀米は古くは堀籠とも書かれ、景行天皇十五年に東山道都督であった彦狭島王の亡骸を葬ったこと、つまり堀り籠めたことによるという。元亨元年十二月日の日本寺梵鐘銘に「下野州佐野庄堀籠郷応龍山天宝禅寺、住持沙門大朴玄淳、大檀那中務尉藤原朝臣通義、堀籠宮内左衛門尉源有元」とみえ、この梵鐘は永徳二年に鎌倉の浄妙寺に移され、.現在は日本寺の所有になっている。大檀那の藤原朝臣通義とは小野寺通義のことで、当郷が鎌倉期以来の小野寺氏の所領であったとされる。一向寺の板碑がこの関係と考えられる一つの根拠ともなっている。