道草:武蔵国の図像板碑(1) |
東国の図像板碑を悉皆調査するという目論見で、相変わらず埼玉県を採訪している。5月末には東京都世田谷区・渋谷区とともにさいたま市を調査する。
★さいたま市見沼区染谷2 三枝家 弥陀一尊図像板碑
JR大宮駅東口(高島屋前)から浦和高校行きバスで約20分、染谷新道下車。ガソリンスタンドと食品スーパーの交叉点を反対の北へ約20分、染谷幼稚園の東にたつ三枝家の敷地の道路に面した一画に小祠を建てて、その中に下部をセメントで固めて保存される。
現高70.5センチ、上幅32、下幅32.5、厚さ3.5センチの頭部山形を呈した図像板碑で、蓮座の下から欠失する。山形から身部上方にかけて欠損する。山形下の二条の刻みは極く浅く彫られる。
刻みの下1.5センチから宝珠を載せた半円形の天蓋が幅13.5センチ、高さ8.3センチの大きさに線刻され、両端と真中四ヶ所から瓔珞が垂れ下がる。
大きな二重の頭光をおった阿弥陀如来像は33.5センチの大きさに作られる。右手を胸元に挙げ左手を膝の当たりに垂下した来迎印をとる。肉髻は五つの盛り上がりを見せ中央正面には大きく螺髪を表す。顔の輪郭や目鼻を陰刻する。衣紋は線刻で表現され一部は底を平らに浚えて表される。身体全体からは三重ずつの放光を13方向に石の端の方まで長く伸ばしているが、枠線は刻まれていない。足元の蓮座は幅16センチに高さ6センチで蘂を上端に彫りだしている。この所までで以下の部分を欠失する。
像の作りから見て室町中期頃の造立による板碑と考えられる。
★さいたま市見沼区片柳2・守屋家 弥陀一尊図像板碑
先の三枝家とは逆に、染谷新道のバス停交叉点を南へ道なりに進むと園芸店があり、これを右に取り、「コウシン精工」を左に曲がった所に守屋家がある。バス停から徒歩で約15分。
庭の一隅にトタン葺きの小屋を造り、この中に祀られる。完存するが調査した時では根部から折損して傍らに置かれていた。総高129.5センチ、上幅31.7、下幅30.8、厚さ3センチで、頭部山形から右上部に一部欠損するほかは完存する。表面は風化があり像容や刻字の詳細は判りずらくなっている。
二条の刻みの下に長方形の枠線を刻む。下端で幅27.3センチ(上端は欠損して不明)、高さ61.5センチの大きさである。その上方に線刻の天蓋とその両端上に日月を直径5センチの大きさに浅く作る。天蓋の両端からは瓔珞が垂下する。
二重の頭光をおう阿弥陀如来は、蓮座の上で来迎印をとって立たれる。像高は19センチの大きさである。頭部からは一条ずつの放光が16方向に瓔珞を通り枠線まで長く伸びている。
蓮座の下には打ち敷きを懸けた前机が置かれ、上に華瓶・香炉・燭台が並んで置かれる。
三具足・前机の下中央に「奉月待供養」その両側に「源右衛門/嘉子」「平衛門/六□左衛門」と二名ずつ交名、枠線下端に「永禄五年壬戌/八月廿三日」(1462)、間に四名の交名「袈裟太郎/源衛門/増房/松子」を刻む。
月待供養板碑は富士見市で嘉吉元年(1441)に初めて造立され約200基が知られるが、種子板碑が先行し図像板碑は康正三年(1457)に初めて造立される(あきるの市)。守屋家の板碑はそれに次ぐ図像板碑になる。
昭和45年3月7日さいたま市指定文化財「片柳板石塔婆」(考古資料}。