福島県の来迎石仏・板碑(75) |
★観音山来迎三尊磨崖仏 泉崎村踏瀬字観音山(2)
地元で俗に「踏瀬の五百大阿羅漢」と呼んでいる、板碑・五輪塔磨崖の中に、自動車道のコンクリート橋の東端真下に、1基の来迎磨崖板碑が刻まれている。
地上から二段目にあたり、両側には80㎝たらずの小型の板碑が数基ずつ並んで彫り出されており、来迎板碑はこの中に1基だけ厚く彫り出される。高さ102cm、額部で巾44cm、下巾53cmの、頭部山形・二条線・額部・根部をそなえる本格的な板碑を、崖をほぽ平らに削った中に浮彫りにしており、根部は27㎝と厚く前方へ張り出す。額部は、高さ11.5㎝、巾41㎝で上方が少しせまく、左右両側にはそれぞれ4.5㎝と3.5㎝の面取りが施されている。頭部山形は巾42㎝に対して高さ9㎝と割合低平で、ほとんど真直な勾配を示し、二条線は側面まで回って刻まれている。根部は身部の下で高さ10㎝、厚さ27㎝を測り、身部から19㎝張り出している。
高さ67㎝の身部のほぼ中央に、三尊共右下方へ動く早来迎形の像容を1㎝内外の薄肉彫りであらわす。中尊は頭部をやや前に傾け、少し身体を横向きにひねったような立像であらわされ、その右側の観音像は膝をくの字に曲げ、上半身を前にかがめて蓮台を差し出しており、中尊左側の勢至像は胸元で合掌し、軽く上半身をかがめる。三尊共、飛雲の上に立ち、観音菩薩は勢至菩薩よりもやや下方に刻まれていて、左上方から右下方へという動きを示している。像の彫り方は、押型状の平板なもので、像容を浮き彫りにするが、衣文の襞は刻まれた痕もなく凹凸も見られない。
この来迎板碑のほかに、コンクリート橋のすぐ下あたりに、漆喰を塗り極彩色で来迎石仏をえがいたものもあったとされるが、現在ではすっかり剥落したのか、多くの磨崖板碑群の中で確定することはできなかった。
観音山磨崖板碑群は、大正12年1月、県文化財調査委貝の堀江繁太郎氏が調査して見取図を作った結果流基の板碑が数えられたということであるが、現在は崩壊などのためにかなり数が減っているように見受けられる。これらの板碑は20余りのグループに分けて刻まれている。コンクリート橋の中央から右の方が比較的保存状態がよく、左寄りの部分は石質の関係もあるのか風化が進んでおり、この付近に寛永の五輪塔が3基見られる。
刻まれている板碑は、頭部山形で二条線・額部・根部をそなえる形式のものが最も多く、そのほかに五輪塔浮き彫りが数基みられる。川勝政太郎博士によれば、最古の板碑は種子「バ」を薬研彫りし、その下に墨書で「右志者為悲母逆修/弘安八夫丁□□/乙酉七月日」と二行に記したものである、という。
これは、コンクリート橋の3本目と4本目の梁の下、地上から四段目に2基並んだ板碑の右側のもので、78㎝の高さを測るものである。身部の墨書銘はかなり風化し、現在では年紀の部分が判る程度である。この左側の板碑は、高さ79㎝で種子の「ア」を薬研彫りし、無銘で額部に面取りを施す。
最大と思われる板碑は、橋の中央部の下あたりに、石塊状になった一群の右端の「ア」を彫るもので、総高148㎝を測る。墨書以外の板碑で在銘のものは見当らず、川勝博士は同書の中で、この一群の板碑を鎌倉時代中期〜室町時代の製作とされている。
なお刻まれている種子は、「ア」が最も多く、そのほかには「タラーク」「バク」「バ」などが見られる。.
磨崖板碑の例としては、東北地方では山形県南陽市赤湯の東正寺磨崖板碑群(永仁二年在銘)・福島県須賀川市森宿の御所宮板碑群(元治三年在銘等約30基)等がある。