福島県の来迎石仏・板碑(67) |
○矢吹町の来迎石仏
中心地である大字矢吹は、康平年間に源義家が東征の帰路、此地に八幡杜を造営し、矢柄をもって、其屋根を葺きたる故に矢葺の名あり、後に矢吹と改められた。もとは民家も所々にしかなかったが、天正六年今の地に叢房し爾来奥州街道の駅次として数えられるようになった(『西白河郡史』p82・復刻版)。また中畑新田、中野目・神田・堤・明新は、かつて石川郡に属し、後に西白河郡に編入された。
★山王来迎板碑1 西白河郡矢吹町大和久字東の内
矢吹の中心地の西寄りを走る国道4号線をこえて、街の西域にあたる田内の集落へ行く道の右手崖の上にある。国鉄矢吹駅の西約3㎞ばかりの所で、道路の右側はずっと山の斜面を削った2mばかりの崖が、左側には田畑が続いていて何の目印にするものもない。
崖を登ると桜の木の下に1.5mたらずの大きさの来迎板碑が倒れており、その左側に来迎石仏の残欠が苔にまみれて、同じように倒れている。地元では以前から「山王さん」と呼んでいるとの事である。
右側の来迎板碑は、桜の木の根元に倒れており、総高148cm、上巾50cm、下巾61cm、厚さは根部で27cm、身部で21cmの凝灰岩製で、頭部は山形をなし、その下に二条線・額部及び根部をもつ。山形は中程でむくんでおり、巾47㎝に対して、高さは20㎝と比較的低平な比率を示している。二条線は側面まで巻かれ、額部の両端はそれぞれ4㎝ずつの面とりを施し、身部より9㎝突き出している。
身部は左右に4.5㎝の輪郭をとり、1.5㎝の深さに彫り窪めてあり、その内側の中央に阿弥陀立像、左右に両脇侍が向い合う中通り地区の来迎石仏として、最も普遍的な像容の三尊が半肉彫りであらわされる。中尊の左手先から膝にかけて剥落して苔むしている外、三尊共著しく風化が進んでいて全体に像の概要がわかる程度しか残っていない。観音像も体躯は一応残るものの腕から蓮台にかけては剥落しており、膝を曲げて上体を前屈させているのは、反対側の勢至像の場合と同じで、横向きの身体は著しく細身に彫られている。
★山王来迎石仏2 西白河郡矢吹町大和久字東の内
先の来迎板碑の左側数10㎝離れた所に立つ、桜の木の根元に立てかけられてあり、高さは左辺で52cm、右辺で39cm、上巾41.5cm、下巾43cm、厚さ12cmの板状の凝灰岩製で上半部を欠失する。向って左辺に2〜2.5㎝の輪郭の跡があり内部を約0.5㎝とごく浅く彫り窪める。右辺は欠損する部分があるものの、残る部分には輪郭は認められない。
石面の中央から左に寄ったところに、弥陀立像が薄肉彫りされるが、身部から上の部分は現在失われて無い。石質が緻密なせいもあり、像の彫刻はよく残っており、中尊の足の指の一本一本がわかる程である。その左側に合掌する勢至菩薩立像が、左の輪郭ぎりぎりに彫られ、観音菩薩が中尊の足元の右側に、左足を前方に膝を立て右足をうしろに曲げ、今まさに行者を迎えとるように、蓮台を差し出す姿勢で彫り出される。この蓮台の先から石の右端までは10数㎝の空間が残されているが、ここに行者像の彫られたようすはない。西白河郡の未迎石仏の内、早来迎形のものは7基を数えるが、行者像を彫った来迎石仏はわずかに、南部の表郷村・硯石において見られるのみである。
また、この三尊は足元に蓮弁も飛雲も彫られておらず、ただ阿弥陀如来の足元や観音菩薩の下部に、朱の色が残っているので、蓮弁や飛雲を色材でもって線書きしていたのではないかと考えられる。