埼玉県の図像板碑(174) 北埼玉地区・行田市(3) |
熊谷と羽生を結ぶ秩父鉄道の「東行田」駅の東の踏切を渡った所に東面して山門が開いている。忍城鎮護の目的で戦国期に創建された寺で、應珠山雍護院と称し真言宗智山派に属する。山門を入って本堂に向かう途中無縁塔の向かい側に一列に並んで立つ数基の石造物に混じって、切り石の上に据えて一基の板碑が祀られている。
現高84センチ、上幅43、下幅43.5、厚さ9.5センチの緑泥片岩製の図像板碑である。下方約3センチは幅23センチと狭くなり根部であることがわかる。即ち身部の高さは約80センチ(左右で少し異なる)である。全体的に傷みがあり頭部山形も二条の刻みも持たない。両側面も不整形である。
石面の上方に枠線を刻まず直接に像容が彫り出される。即ち、直径14.5センチの線刻の頭光をおった正面向きの阿弥陀如来立像は、幅13センチ、高さ6.5センチと小さな蓮座(両端が脇侍菩薩の頭光に隠れる)の上に立ち、右手を胸元に挙げて棯じ、左手は膝の当たりに降ろした来迎印をとる。面部や手足は石面のままに彫りだし、衣紋は襞の部分を凹刻して内部を薄く彫り浚える手法で表現する。二条ずつの放光は前身から十一方向(今は真上の放光は認められないが……)に放たれていて、石の端まで長く伸びている。
中尊の蓮座の端に食い込むようにして脇侍二菩薩の頭光が線刻され、共に中尊の方を向き合った観音菩薩と勢至菩薩が蓮座の上に立っている。観音像は肩から腕の方にかけて曲がりくねった天衣が陽刻され、衣紋の襞も陽刻で表現される。勢至菩薩の方は上半身の部分が風化により細部が不鮮明であるが、残る部分からその彫法が丁寧であることが判る。観音像23センチ、勢至像25センチの像高を測る(蓮座の下辺も勢至像の方が少し低い)。
脇侍像の間に一行、年紀のみが彫られる。
「至徳二年十一月日」 (1385・南北朝末)