埼玉県の図像板碑(82) 大里郡 15 |
深谷市の東部に当たり東は熊谷市に接する地域で、全久院は『新編武蔵風土記稿』巻227によれば、「禅宗曹洞派、榛澤郡人見村昌福寺末。東方山と号す。松平丹波守康長この地拝領の後祖先戸田弾正左衛門宗光追福のため、三州宝飯郡牛窪全久院の寺号を写してここに草創せし一寺にて云々……」と記す。
板碑は本堂に向かう石畳の右手にさつきの植え込みが有り、その後ろに「深谷市指定文化財 考古資料 青石塔婆(昭和36年11月3日)」と記された木柱の傍らに西面し直接地上に立てられる。
中尊の二重光背の上の部分から蓮茎が五本伸び、先端に水滴状の光背が彫り出される。この形式は妻沼・歓喜院塔と同じで、能護寺塔・福寿院塔の如くその中に化仏を彫り出すことはしていない。善光寺式三尊は七化仏を光背部に伴うが、本塔は五本の茎を伸ばし先端の化仏を表す部分も小さく、全体の形から見て蓮華の伸びる状況を表しており、化仏の表現意欲はうすいと考えられる。また石の幅に対して光背の幅が狭く石面両側の平坦部分が廣いことなどは、造立年代が少し遅い時代の造立によるものを示すものと考えられる。
光背の左下辺りに石が一部剥離するほか、前述の如く阿弥陀像の上半身は剥離し脇侍像にも剥離や風化が認められる。