埼玉県の図像板碑(76) 大里郡 9 |
熊谷駅─犬塚間の東武バスで約15分、「龍淵寺前」下車。曹洞宗天真派に属し、太平山天釣院と号し阿弥陀如来を本尊とする。応永十八年(1412)忍城主成田家時の開基、清順和尚の開山と伝える。永享十二年(1440)家時の孫顕泰が再興して伽藍を整え、以後成田氏の菩提寺となった。
墓地中央奥に「龍渕寺開基成田五郎家時墓」(円覚寺 朝比奈宗源筆)の石柱が立てられ、一段と高くなった墓所玉垣の右端に、台石に下部を挿入して立てられる。現高130センチ、上幅41.8、下幅45.3、厚さ5センチの緑泥片岩製の板碑で、頭部の山形は失われている。二条に刻みを持つ。
二条の刻みの下4センチから高さ10センチ、幅29センチの天蓋を線刻し五条の瓔珞が垂下する。石面のほぼ中央に二重の頭光をおい正面を向いて来迎印をとる阿弥陀像を32センチの大きさで線刻する。肩幅11.5センチに対して像高が低く、ずんぐりした体躯である。上半身部分を斜め格子縞であらわす外は衣紋の周囲を線刻するなど、比較的簡略な彫法を用いる。放射光は二重の頭光の外側と頭からと交互に、二八方向に傘の骨状に丸く伸びている。線刻の蓮座の下方、やや離れて前机・三具足が小さく線刻される。
阿弥陀如来の垂下した手のあたりから両側に一行ずつの銘文と、その下の前机を囲んで四段にわたって、道定 妙俊 道永 道念 妙性 道賢 道珎 道□ □袮 妙道 □□ 道阿等二七名の交名が彫られるが、交名は風化の為に一部判読できないところがある。
「 延徳四年(1492)壬/□十月十五日」
(阿弥陀如来像)
逆修一結衆ホ敬白」
その左に立つ地上高105センチ、上幅37、下幅58、厚さ4.7センチの剥離した板碑は県調査報告書によると「以前は、阿弥陀三尊種子と地蔵の図像を配し正元元年(1259)已未十月中旬の紀年が認められた。現在では剥離が進み已未の文字だけが残る」(資料編⑵ 374ページ)と記録される。
なお、当寺には県指定旧跡・奥田清湖墓(江戸時代の女流画家)、市指定史跡・成田氏の墓がある。後者は開基家時の後に続く長泰・氏長らの墓と伝える板碑型一基、五輪塔二基、宝篋印塔四基である。