埼玉県の図像板碑(72) 大里郡 5 |
常光院の西に隣接する寺で、地元の人の話では常光院の隠居寺とのことで、寺域の道路を隔てた向かい側にある墓地の右端に、コンクリートの基壇の上に東面して立っている。
現高131センチ、上幅62、下幅60、厚さ8センチの緑泥片岩製の板碑で、左下部が大きく欠損するほか右中央に石の破損が見られるなど保存状態はあまりよくない板碑である。
頭部の三角山形から18センチ下に一本の界線を陰刻し、その下87センチの所に下の界線を刻む先の常光院の板碑とほぼ同じ形式である。この界線から8センチ隔てて二重光背を彫り窪めて、その中に正面向きの阿弥陀如来が蓮座の上に立つ姿を彫る。さらにその足元両側に同じく二重光背の中の脇侍菩薩像を陽刻する。勢至菩薩は胸元で合掌する姿であるが、観音菩薩像は蓮座を捧持する姿でなく、右の袖を胸元に挙げたような姿に作られやや異形である。足元から両脇侍とも少し中尊の方を向いているように見える。中尊は像の部分がすっかり剥離しておりかろうじて形状を止める程度である。観音像は頭部は剥離するが衣紋の部分以下が残る。勢至像もほぼ同様な状態で三尊とも細かい部分については不詳である。中尊の二重光背は頭光部で直径12センチ、身部で17センチ、裾部で13センチである。
蓮座は中尊のものはごく薄く陽刻で作られ、観音像のものは平底形に彫り浚える様式をとるように見られ、勢至像のものは風化のために不明である。像高は阿弥陀像約42センチ、観音像24センチ、勢至像24.5センチである。
脇侍像の光背の所から一本ずつ蓮の茎が上に伸び先端に蓮華が薄肉彫りされるが、阿弥陀像の肩より迄で常光院塔のように長くはない。
かつて武蔵型板碑の悉皆調査の重要性を説き自ら実践した千々和実先生が、常光院塔と實相院塔を比較して取り上げ、来迎を表す図像板碑の初期のものと説かれている*1。
少し長いが引用する。
「初発期板碑の陽刻の三尊の観音像が蓮台を捧げているからといって、それだけでは来迎像としては不完全である。なぜなら、来迎像の特徴は来迎の動きでなくてはならない。ところがこれら初発期陽刻像をはじめ、それにつづくらしい三光三尊像などいずれも弥陀も脇待も直立不動の静止状態で、動きはまったく示されていない。普通、来迎像は来迎印がきめ手とされるが、石像では磨損のため判別できないものばかりといってもよい。それより全体の姿態に見る動きが重要である。それに速度を示す飛雲とか、腰をくねらせたり、まげたりしている脇侍、斜横に向いて蓮台をささげる観音、踏み割り蓮座に立って八方に光明を放つ弥陀、とくに白毫から光明が斜め下方に落ちる状など、その動きが来迎図には肝要である。
こうした観点で、初発期陽刻像から来迎像への展開過程を、熊谷市上中条実相院と、その東方数百メートルの常光院とにある二基の弥陀三尊陽刻像板碑を対照することによって見ることができる。両者とも年紀は見得ないが、実相院のものは三尊とも直立不動の姿で、初発期陽刻像となんら区別するところがないが、ただ両脇侍の左右斜上方に、めずらしくものびた蓮茎を立てた点が異なるだけである。ところが常光院のものは、これと構成はまつたく同じであるが、こちらは蓮茎がさらに長くのび、両脇侍の姿態が直立でなく、しなやかに腰をくねらせ、観音は蓮座をささげ、勢至は合掌していて、動きが充分に現われている。だから、この両板碑の前後関係は、まつたく直立不動の初発期陽刻像の趣をもった実相院の板碑から、姿態に動きを充分に示した常光院の板碑への展開が示していると見ることができる。惜しいことに両者とも年紀銘を欠くが、ともに頂部に横二条線を深く刻みこまず、左右の端に二段の羽刻みをつける点は、寄居町富田大日堂や横浜市鴨志田の寛元元年(1243)、児玉町元田千手堂の正嘉二年(1258)三連碑と共通するから、大体それに準ずるころ、すなわち1250年前後のものと考える。」
下の線図は千々和實『武蔵國板碑集録』三より引用する。
注*1 千々和実「板碑に見る中世仏像表現」(『仏教芸術』89号 仏教芸術学会 昭和47年12月)