埼玉県の図像板碑(65) 児玉郡 13 |
JR高崎線「神保原」駅の北約2キロにある藤嶋山を山号とする真言宗智山派豊山派の寺院で、板碑は保存の為に本堂奥に、種子板碑4基・石仏と共に保管される。
現在は剥離して二石に割れているが、もとは一石であったと見られる(下の写真・拓影は何れも上下を合体した状態で表す)。
上に当たる石は現高58.5センチ、幅33.3、厚さ4.2センチの不整形のもので、頭部が三角に尖るが二条の刻みは見られない。上方に種子「ア」を彫り、その下に円頭の姿の方から上の部分が残るが、これも剥離していて身部から1センチの高さに輪郭の形状が判るだけである。
下の石は現高71.6センチ、最大幅49、右辺の厚さ7.2センチで、下部31センチが平らに身部より2.8センチ張り出して作られる。この張り出しの上に40.5センチの像高を測る合掌像が半肉彫りで彫り出される。丁度肩の所からその形に沿って折損する。右肩の横に「實」の一文字が残る。像の足下には幅36.5、高さ16.5センチの蓮座を浅く彫り沈めるが、その蓮座の形は近世のものに近い。
『上里町史』の記載では「高さ104センチ、種子「サ」を彫り像は「観音像」、とするが、拓影も写真もないためにこの板碑と同じものか確証はないが、拓本を合成して検討した結果では種子や像容に違いが有るが大きさなどから町史記載の板碑と考えられる。像については円頭で合掌立像という点で地蔵像と云いうるのかどうか、ひとまず図像とする。あるいは童子像で、時代は更に降り江戸期の石仏(墓塔)であったとも考えられる、要後考。
【注記】千々和実『武蔵国板碑集録』三の中で、「青板石に地蔵立像を陽刻し、基礎部を造り出してはいるが、蓮座や像や種子(ア)は近世の彫刻と考える」として「番外」として番号を外している(291ページ)。