埼玉県の図像板碑(29) 比企郡都幾川村 |
JR八高線「明覚」駅の西南西約6㎞の山間部にあり、村営バスを参道に多数の板碑が並び立つ風景で有名な慈光寺への分かれ道で乗り継ぎ山道を歩くという不便な場所にある。
城壁のような石垣や門や古建築が此の家の歴史を物語るかのようである。屋敷を越えて少し下の平地に吹き放しの堂を立ててその中に多数の板碑をたてて保存される、その中には六角形の板石にホゾ穴を穿った石やその断片も見られる。
目的の板碑は総高128センチ、下幅30.5、厚さ3.5センチ。頭部は平らな緑泥片岩製。二条の刻線の下に幅27センチ、高さ86.5センチの枠線を彫る。枠線一杯に天蓋を造り出し、華麗な瓔珞が五條垂れ下がる。その下に三体ずつ上二段に六観音像(聖・十一面・千手・不空羂索・馬頭・如意輪=天台系)を、その下に六地蔵像(檀陀・宝珠・宝印・持地・除盖障・日光)を彫る珍しい図像板碑である。最上段中央のみは二重光背をおい少し大きく彫られ、頭上に多くの化仏を頂くところから十一面観音像と知れる。他の五体は頭光をおい合わせて六観音を表すとされる。その下二段六体は同じく頭光をおい錫杖・梵篋・幡等の持ち物を持つ六地蔵を表す。何れも蓮座の上に立つ姿で表される。共に持物や姿態に違いがあるが確定出来がたい。
最下段の地蔵像の間に「長禄五年(1461)辛/巳/卯月吉日」の年紀を彫利、左隅に「重祐」とあり反対側にも刻字があるとするものもあるが、今は判然としない。
形状から六面石幢であるという見方もあるがひとまず板碑と見た。同所には外に三十数基の板碑が所在する。
なお、近くの多武峰神社は慶雲三年(706)奈良・多武峰の談山神社から鎌足の遺髪を分祀した多武峰大権現に始まるといい、武藤家は多武峰神社にかかわる修験者の家系であったという。
【参考文献】 都幾川村史史資料6⑶『文化財編 中世石造物』(都幾川村 平成7年3月25日)